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第二話
 あの日の些細な事件以来、ミドリは以前にも増して考え事をする時間が増えた。
「お口に合いませんでしたか?」
 こうして食事をしている最中でも、そのことすら忘れてしまう事がある。
「…………」
 このジンの問いはどうだろう?
 ジンの調理に問題がないということは、本人も認知しているはずだ。あえてそれを問うこの行為は、食事に集中すべきであるということを遠回しにミドリに伝えているだけに過ぎない。
 そんな事は考えるまでもなくわかってたはずだった。
 それにもかかわらずこうして疑問が増えてゆく──。
 ミドリにとってはその全てがジンと共にある。
 ジンはミドリにとって最良の”外部記憶装置”であり、”高性能演算器”であり、ミドリの研究に欠かせない存在であると同時に、日々の生活を支えてくれる良きパートナーでもある。
 それだけなら一般的なロボットやアンドロイドとなんら違いはないが、その決定的な相違点はこの人工知能をミドリがその手で作り上げたというところにある。それはすなわち、ジンに関するあらゆる責任をミドリ自信が背負わなくてはならないということであり、ましてやミドリは科学者である。疑問が浮かび、それに対して出来ることがあるのであれば、結果を探求せずにはいられない。
「ジン」
「はい」
「少し早いけど、明日メンテナンスしたい。大丈夫?」
「昼の間に雑用を全て終わらせておきます。夕方にはレイ様もお見えになる予定ですし、明日は早めにディナーのご用意を…」
「それは断るようにって言ったはずでしょう!」
「ですがレイ様は」
 ジンはそこで一端言葉を切る。
 それはあたかも、これから口にすることが重要なのだと言わんばかりだった。
「あなたの婚約者様です」
 ──全く、どこでこんな手法を覚えたのか──
 ミドリは無意味だと思いつつ、ジンを睨みつけた。
「それを了承した覚えは無いって、何度言えばわかるの?」
「私の方こそ何度も申し上げているはずです。レイ様はとても誠実で素晴らしい方です。少しはご自分の幸せのこともお考えになってください」
 ジンの言うことに間違いはない。レイが評価に値する人物だということもミドリは理解している。しかし、これだけはどうしても譲ることの出来ない問題だった。
「ジン、あんたは一つ決定的に間違ってるわ」
「どこが間違っているのでしょうか?」
 ジンは頭を僅かに傾け、即答する。
 その非の打ち所のない美しい顔に、ミドリは一瞬、答えに詰まってしまった。
「…ご自慢の演算能力で答えを捜すことね」
「これはあなたが授けてくださったものですよ」
 なおも美しく微笑みながら憎らしいまでのアウトプットを続けるジンに、ミドリの苛々はますます募る。
「そんなことわかってる!皮肉くらい言わせてよ!」
「もちろん承知してます。私も皮肉を言ったまでです。教えていただけないのでしたら自分なりに考えてみることにします」
「勝手にすればいいわ。とにかく、レイの話はもうやめて」
「そうはおっしゃいますが、この先レイ様ほどのお方が見つかるとも限りません。このままでは老後に寂しい思いをなさいますよ」
「余計なお世話よ!ジン、いいから今すぐレイに断りを…」
 そこまで言ってミドリは思い直す。
 ──ジンに任せては駄目だ。
「…やっぱりいい。自分で断ってくる」
 ミドリは食事にほとんど手を付けないまま、席を立った。


 一瞬のノイズの後、ミドリは自室のチェアからゆったりとした応接間のソファのある空間へと移行する。
 21世紀に開発されたこの仮想空間での通信方法は、内部処理こそ進化したものの基本構造は今なお健在だった。アヴァターを通して五感全てを刺激するこの空間は、一見、現実世界と区別が付かない。それ故、かつては様々な問題を抱えていたらしいが、現在では数々の改良がなされ、誰もが安心して日常的に使える技術となっている。
 レイがソファから立ち上がり、親しげな笑みを浮かべ手を伸ばす。
「やぁ。君の方から連絡くれるなんて嬉しいな。仕事は落ち着いたの?」
「そうでもないの。だから悪いけど明日の約束は無かったことにしてくれない?」
「…そうか、相変わらずなんだね」
 残念そうにそう言うと、レイは差し出したまま受け取られることの無かった手を所在なさげに引っ込め、ソファに腰を下ろした。
 レイは裕福な家庭で育った”お坊ちゃま”だったが、決してそれをひけらかすことのない、穏やかな性格の青年だった。次男坊ということもあってか、カレッジを卒業後、実家を出てそれなりに優雅な社会生活を行っている。
「また少し痩せたね。ジンがいるから心配はないと思うけど、ちゃんと食べないと駄目だよ」
 いつもの事ながら、レイは優しくミドリを気遣ってくれている。
 その優しさに応えることの出来ない自分がもどかしかったが、それでも、いつまでも甘えているわけにはいかない。このままずるずると期待を持たせることは、レイにとってより残酷な結果を生むということは誰よりも自分がよくわかっている。
「…あのね、レイ」
「あ、明日の事だったら気にしなくていいよ。こうして顔を見ることも出来たし、声も聞けて本当に嬉しいよ」
 思い切って口を開くと、それを見透かされたように交わされてしまう。
 レイは決して声を荒げることも問い詰めるようなこともしない。ただこうやってミドリの逃げ道を優しく塞ぐ。この優しい誘導に、ミドリはいつも本当の気持ちを伝えることが出来なかった。
「そうだ、今度行くときに君の大好きなブルーベリーを持って行くよ。今年もうちの庭でたくさん採れたからね」
 このままでは、いつものように何事もなかったかのごとく会話が終わってしまう。
 今日こそはと固めた決意で、ミドリはやんわりとレイを制止した。
「ごめん、レイ。私たち、もう会わない方がいい」
「…え?」
「本当にごめんね。でも、やっぱりあなたのプロポーズを受けることは出来ない」
「…どうして…?」
「あなたには幸せになって欲しいって心から思ってる」
「君は…僕がどうしたら幸せになれるのか知ってるだろう?」
 悲しそうにそう語りかけるレイの顔を、ミドリは見ることが出来なかった。
「あなたのことは大好きだし尊敬もしてる。でもね、それと結婚するって事とは別だと思う。どうしても…そういう気持ちになれないのよ」
「どうしてそう性急に答えを出そうとするんだ…。僕はいつまでだって待つよ?」
「いくら待ってもらっても私の心は変わらない。だから…待たれと困るの」
「じゃぁ待たないよ!待たないから…だから”もう会わない”なんて言わないでくれ!」
「レイ…」
「頼むよ…一生、君の友達のままでもいいから…」
 震える声で俯き、祈るようにそう呟いたレイに、ミドリは「ごめん」と一言残し、通信を切った。
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