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第三話
 扉を叩くかすかな音が聞こえた気がした。
 その直後、廊下からジンの遠慮がちな声が掛かる。
「…お邪魔してもよろしいですか?」
 それはもちろんミドリの耳に届いていたが、返事をする気になれなかった。
 しかし、明日のメンテナンスについても、レイとのことも、ジンとはきちんと話さなくてはならない。ミドリはゆっくりと廊下へ繋がる扉を振り返り、今さらながらに返事をしようとジンの気配を探った。
 ──廊下からは物音一つ聞こえてこない。
 もう眠ったとでも判断したのか、それともまだレイと通信中だと結論付けたのか――どうやらジンは既に立ち去った後のようだった。ミドリは小さくため息を漏らし、どのみち明日の朝には顔を合わせるのだからと気を取り直し、再びデスクへ向かった。


 一体、どこで狂ってしまったのか。
 気づきにくい場所にある小さな小さな歯車が歪み、全ての事象がおかしな方向へ進んでゆく――そんな感じだった。
 原因は何か?何を改修すればいいのか?
 デバッグや対照実験の方法ならいつだっていくつでもリストできる。ありったけの仮説を立て、反証するのも得意だ。こういった問題解決のプロセスは、なによりミドリの得意とすることだった。
 ――それなのに、この小さな歪みについてだけは、どこから手を付けたらいいのかさえわからなかった。


 人の心は複雑だ。最も身近な自分の心ですら制御できない時がある。
 自分の望みは何なのか、何を恐れているのか――。
 まずその辺りをリストアップしてみようと思った。それによって問題点をあきらかにできれば、そこから解決への道が拓けるかもしれない。仮説を立てる為の下準備――そう思えば気分も少し軽くなる。ミドリは早速目の前のマシンにスタンドアロンエリアを作るべく、お気に入りのキーボードを叩き始めた。
「失礼します。お邪魔してもよろしいでしょうか?」
 ――再び、扉の向こうからジンの声が聞こえた。
「あ…ジン?ちょっと待って」
 それらしい物音には気づかなかったが、いつの間にか戻ってきたようだ。ミドリは素早くモニタを切り替え、ジンを招き入れる。
「夕食をほとんど召し上がってらっしゃらなかったので、軽食をお持ちいたしました」
 ジンは綺麗にカットされたフルーツと合成ではないヨーグルトという、まるで朝食のような――素早く血糖値を上げ脳を活性化させるには最適な――メニューを載せたトレーをサイドテーブルの上に置き、ポットからコーヒーを注ぐ。その間、ミドリはその無駄のない動きをぼんやりと見つめていた。
「ねぇ、もしかして…」
「はい?」
 ――キーを叩き始める音がするまでドアの前で耳を澄ませ待っていたのではないか。
 ふとそんな光景が思い浮かぶ。
 ジンならやりそうだ。
 知りすぎるほど知っているにも関わらず解らないことがいくつもある。
 相手が人間だろうとヒューマノイドだろうと。
 ならば何故、自分はこんなにも躍起になってその答えを探そうとしているのか。
 そう思うとなんだか少し可笑しくなった。
「あ…いや、なんでもない。それより…そうね、最近はどんな夢を見る?」
「明日のメンテナンスのためのデータ収集ですか?」
「ん、まぁそんなとこ」
「少なくとも、電気羊の夢ではありませんね」
「なにそれ?」
「先日留守を預かっている時に書庫で懐かしい本を見つけまして」
「あぁ、『DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP?』か…」
「はい」
「確か20世紀中頃のフィクション小説ね」
「1968年です」
 小説そのものは21世紀初頭の混沌とした世界を想像力豊かに描いたもので、後のサイエンスフィクションに多大な影響をもたらしたという有名な作品である。そして著者の死後死後四半世紀経った後に、彼をモデルにある一体のアンドロイドが作られた。当時最高の”感情表現”が出来る人工知能が組み込まれた『フィル』は、”夢の実現”がそう遠い未来ではないということを人々に改めて認識させるきっかけとなったという。
 もちろん、現代では既製品ですらその程度の人工知能や外観は併せ持っている。しかしミドリはそれに満足することは出来なかった。最初は単なる父への反発だったはずのAI研究が、いつの間にかミドリのライフワークとなり、父と袂を分かった後も、ひたすら”最高の人工知能”を目指し続けた。幾つものヒューマノイドを”再生”し、そしてとうとう念願だったジンの人工知能の組み替えが実現したのだ。
「…時代がその舞台を追い越したときって、何とも言えない奇妙な感覚になるわ」
「そういうものですか?」
「そうよ。だからそのジョーク、全然笑えない」
「ですが、あなたはリック・デッカードに夢中でした」
「子供の頃の話でしょ」
「はい。私はあなたが私を慕ってくださっていた頃の事も、疎ましく思っていらっしゃった頃の事も全て記憶しております」
 幼い頃、ミドリはジンが大好きだった。多忙だった父に代わり、ジンはいつも側にいてくれた。そうプログラムされていると知ってからも、誰よりも自分に近い存在でいてくれることがただ嬉しかった。
「疎ましく思った事なんてない」
「ですが、あなたはお父上が亡くなられたと知らされてからの数年間、一度もご自宅にお戻りにならなかった」
「寄宿制の学校に行ってたのよ?家族の居ない家になんて帰る必要ないじゃない」
「私は寂しかったですよ」
 …どうしてこういう嘘を付くのだろう。
 あの頃のジンは既製の人工知能で、寂しさを装う事すら出来なかったくせに。
「それは今のあんたが予測演算して出した偽りの記録データでしょ」
「例えそうだとしても、あの時の私は毎日あなたの事ばかり考えていました」
 ──また、だ。
 どうしてこういう発言をするのだろう。
 もしもこれが…。
 そんな事を考えてしまう自分が嫌になる。
「…そんな記憶、消しとけばよかったわね。あんたにとってもあんまりいい記憶じゃないみたいだし」
 ミドリはジンの人工知能を組み替える際、それまで蓄積されたデータを残すかどうか悩んだ。しかし、より人間的機能を目指すのであれば、過去の記録データは一つでも多い方が良い。”思い出”というデータは例えそれが擬似的なものだとしても、模擬人格の形成に多大なる影響をもたらす。新しくなったシステムでそれらを再構築させるという事も、ミドリの研究課題の一つだった。
 でも…。
「もしもこの記憶を消されていたら今の私はいません。どんな些細な思い出だとしても、それら全てを残してくれた事に感謝していますよ」
 そう言ってジンは微笑んだ。
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