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第二話
 柚子は堪らなく不愉快な思いを抱えながら玄関のドアをくぐると、ちらり、と土間を見る。今日辺り母が”出張”から帰ってくると聞いていたが、戻りはまだのようだった。父の草履も見あたらないところをみると、おそらくまだ拝殿の方にでも居るのだろう。
 歩くたびに軋む廊下をずかずかと進んで自室へ向かった。


 この神社はそれほど規模は大きくない。只、高台に位置しているため、境内へは仰々しい程の長い石段を登らなくてはならず、その頂上付近には少々色褪せた朱色の鳥居が幾重にも並んでいる。そこをくぐり抜けると短い参道の脇に質素な手水舎があり、その反対側に掘っ建て小屋のような社務所がある。柚子の住まう家はその更に奥にあった。小さなこの家の裏から数歩も行けば、小規模ながらこの神社を囲う鎮守の杜の輪郭に触れる。先ほどの大木はそこから本殿の裏手側へ少し行ったところの奥の方に位置している。
 勿論、あの木とは別に、表側からも目に付く場所に御神木はあるが、柚子にとっては注連縄も何もないあの木の根本こそが安らげる場所だった。
 これまであそこで誰かと顔を合わせた記憶はなく、参拝に来る者たちが近づくような場所でもない。
 あの男は一体いつからあそこにいたのだろうか。
 そもそも、あの男は一体誰だったのか――。
 男の最後の言葉がふと頭をよぎる。
『ずっと見てきた』
 確かそう言っていた。その”ずっと”とは、今日、柚子があそこへ行ってからの”ずっと”なのか、それとも――。
「きもちわるっ」
 思わずそう呟いて肩を竦めた時、携帯が鳴った。
 びく、と一瞬驚いたが、ディスプレイに表示された名前を見て安堵のため息を漏らすと、そのまま電話に出る。
 同じクラスの親友、千加からの電話だった。
 ひとしきり他愛もない雑談を済ませ電話を切ったとき、柚子の頭からはあの男の事はすっかり消え去っていた。


「柚ちゃん、ご飯ー」
 決して広くない家中に、倫子の声が響く。
「はーい」
 柚子はこの兄嫁が好きだった。
 兄である智緑とは年が離れていたためか、どちらかというと両親に近い存在に感じていて、そのことが余計に柚子を孤独にしていた。
 家族の誰もが柚子の気持ちを理解してくれない――そう思っていたところに現れたのが倫子だった。勿論、倫子も智緑と共に神社の仕事をしてはいるが、いわゆる一般人である倫子の存在は、この風変わりな一家にはない匂いがして嬉しかった。
 ぱたぱたと軋む廊下を走り、がらりと居間の襖を開けると、入り口に近い柚子の席のすぐ隣に見慣れない背中があった。
 不審に思い足を止めた瞬間、そのぼろぼろの着物が見覚えのあるものだと気づく。
「ちょっとあんた、こんなところで何やってんのよ!」
「まあまあ、いいから座りなさい」
 そう言って呑気に笑う父親を、き、と睨みつける。
「父さん、こいつが誰だか知ってんの?」
「ん?愁さんだろう?」
「シュウ…って…」
「わしは犬ではないぞ」
 くつくつと笑いながら目を細る男の隣に立ち、柚子は精一杯の怒りを込めて睨みつけた。
「まあ、まずは飯を頂こう。せっかくの御馳走が冷めてしまう」
 なおも呑気にそんなことを言う父に、柚子の肩ががくりと落ちる。
 柚子はしぶしぶと男の横に敷かれた座布団に腰を下ろし、倫子が運んでくれた椀を受け取った。
 ちらりと横を見ると、冷めた笑みを浮かべた男と目が合う。
 見透かすようなその視線が何とも憎らしく思え、柚子はすぐに目の前の茶碗に向き直った。
「なんなのよ一体…」
 そう呟いて箸を取る。
 明るいの光の下で見た男の顔は、この世の物とは思えないほどに白かった。


『母さんの古い知り合いということだから』
 説明を求める柚子に、父はそう答えたが、結局母は今夜は戻らず、その真偽を確かめる事も出来なかった。それにも拘わらず、せっかく来てくれたのだからと、そいつを今夜泊めると言い出す始末。
 古い知り合いなどと見え透いた嘘に騙される父も父である。
 どう見たって二十歳そこそこ。四十をとうに過ぎた母の古い知人などであるはずがない。百歩譲って同業者としての知り合いだとしても、それこそ柚子には関わりのない話であって、これ以上あの男に構う理由もない。
 ――母が帰り次第追い出されるに決まっている。
 そう思っているのに、何故だかあの男の事が頭から消えなかった。
 ひょろりと背が高く病的なまでに血の気のない顔色のくせに、妙な威圧感を放つ態度。
 に、と笑ったときの人を見透かすような目。
 これといって悪意を向けられた訳ではない。それでも――。
 柚子は自分の中の感情がどこに向いているのかすら解らず、只々、苛立ちを抑えられずにいた。
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