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第三話
「もー…さいってー……」
 柚子は下駄箱置き場から出るに出られず、突如降り出した雨に打たれる校庭を眺めて呟いた。
 放課後担任に呼び出され、やっと説教が終わったかと思った矢先に降り出した豪雨。まさか雨が降るとは思っていなかったため傘も持ってきていない。
 仕方がないと鞄を頭に乗せて帰路へと走り出したが、校門を出た所で思いがけない顔と出会い、足が止まった。
「…何やってんの?」
 雨粒がしぶきとなって、もやのように景色を滲ませている。その灰色の景色に、愁のくすんだ着物の色が溶けてしまいそうな気がした。
 母が帰宅して案の定追い出されたのかとも思ったが、それにしてもなぜこんな所に愁が居るのかがわからない。柚子は愁の表情を探ろうとしてみたが、不機嫌そうに自分を見下ろすその顔からは何も読み取ることが出来なかった。
「あんたもしかして行くところが無いとか?」
「おまえと一緒にするな」
「何言ってんの?わたしにはちゃんと帰る家があるんですけど」
「ならば一刻も早く帰ることだな」
「あんたに言われなくても帰るに決まってるでしょ。それよりあんた…」
「愁」
「は?」
「わしの名は愁じゃ。そう呼べ」
「……」
 そう言われたからといって、はいそうですかと飼い犬と同じ音の名を呼ぶのはいささか複雑というものである。しかも目の前の男は今日にも姿を消すはずの、謂わば行きずりの人間だった。ほんの一瞬迷った後、柚子はとりあえず愁の言葉を無視することにした。
「…そんなことより、あんたびしょ濡れになってるじゃん。行くところが無いならとりあえずまたうちに来る?母さんに話ししてあげるからさ」
「静恵はまだ戻っとらんよ」
「はあ?」
 どう見ても二十歳そこそこの男が、倍以上も年の離れた母を呼び捨てにしたことに不快感を感じ、柚子は愁を睨みつけた。
「…あんた母さんとどーゆー関係なのよ」
 柚子は昨晩父のうやむやな説明に押されてしまって聞きそびれてしまったその辺の事情をはっきりさせようと詰め寄ったが、愁はちら、と周囲へ視線を送ると柚子の肩を掴んで声を落とした。
「おまえ、本当に何も感じないのか?」
 ──ぞくり。
 その瞬間、柚子の背に震えが走る。
 は、と見上げると、その血の気のない顔に浮かんだ凍り付くような視線と目が合った。
「な…なに…?」
 肩を掴む愁の手は酷く冷たかった。


 愁は柚子の問い掛けに答えることなく、くるりと踵を返し歩き出した。
 その方向は紛れもなく神社への道で、一刻も早くこの豪雨から逃れたかった柚子は自然とその後を追う形になったが、このいかにも黙って付いてこいと言わんばかりの態度が癪に触る。
 一歩足を出す度にローファーがずぶ、と音を立てて気持ち悪い。何度かそれに足を取られ、いっそのこと靴を脱いでしまいたくなった。
 何度問い掛けても、愁は答える素振りすら見せない。
 先ほど感じた寒気のようなものの正体もわからず、柚子はその冷たい背中と、癖のある真っ黒な髪から撥ねる雨の雫を睨みつけ、只後を追うしかなかった。


 霞がかった視界に神社へ続く石段が見え始めた時、足早に歩いていた愁がいきなり立ち止まった。
 そして振り返りながら、ちら、と目だけで周囲を見渡し、柚子を見る。
 愁に追いついた柚子も思わず足を止めていた。
「知りたいか?」
 そう問い掛ける愁の表情からは、相変わらず何の感情も読み取ることは出来ない。
「…何を?」
 愁を見上げる柚子の顔に容赦なく強い雨粒が当たる。それに負けじと、柚子は全ての苛立ちをぶつけるように睨みつけた。
 ──ほんの一瞬、愁の顔に困惑の表情が浮かんだ気がした。
 でもそれは本当にわずかな変化で、雨でぺたりと張り付いた目元の髪を鬱陶しげに拭った時には再び元の無表情な顔に戻っていた。
「…多少なりとも知っておく必要はある、か」
 独り言のように呟いた愁の声は雨音にかき消されそうな程低かったが、柚子の耳にはしっかりと届いていた。
「あんたさ…さっきから何なのよ!あんたの目的は何?どうしてわたしにまとわりつくの!?」
「わしの目的はただ一つ。じゃがその前に片付けねばならん事がある。その為にもやはりおまえは知っておくべきだろうな」
 その言葉が終わった時には、既に柚子の体は愁に引き寄せられていた。
「これが一番手っ取り早い」
 そう言って愁は柚子の唇を塞ぎ、生暖かい舌で柚子の歯列をなぞる。
 抵抗する間も無かった。
 と言うより、あまりにも突然すぎて、柚子は全く何の反応も出来なかった。
 ──口の端から雨の味がする。
 そう思った瞬間、は、と我に返った柚子は、力任せに愁の胸を突き飛ばしていた。
「何考えてんのよっ!!」
 粟立つ柚子とは裏腹に、愁は落ち着いた様子で目を細め、じっと柚子を見ていた。
「…見えて来ぬか?」
「何がよ!」
 愁は柚子の問いには答えず、視線をす、と空へ向けた。
 暫しの間柚子は愁を睨みつけていたが、愁が逸らした視線の先が視界に入ると、震える手で口元を覆った。
 黒い、煙のような──
 それはただの煙ではなく、生き物のように蠢いていた。
 一つの大きな顔のようでもあり、小さな蟲の集合体のようでもあるそれは、何かを求めて必死に藻掻いているようだった。
 そしてその中の一つが──大きな顔の目が、柚子を捉えて離さない。
 その不気味な黒い塊は今にもこちらに向かって飛びかかってきそうだった。
 無意識のうちに後ずさろうとしたが体は動いてくれず、がくりと膝が崩れた柚子を愁の冷たい手が支えていた。
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